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本厄・厄年・役年
ちょっと「今年は本厄で去年は前厄。そういえば、いろいろあったなあ~。去年の今頃はいろいろときつかったな~。」などと考えながら、ネットで「厄年」を検索してみると全く意外にも以下の記事が
でてきました。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1830822

--------------引用開始-------------
僧籍の者ですが、どうも厄年の本義を勘違いされているようですね。

 厄年というと災いが起きる年と一般に考えられていますが、もともとは村落共同体社会で特定の年齢に達すると、祭礼における神事を司ったり、神社仏閣を守る「宮座」に加入したりしました。それに加わる年齢になると、通過儀礼の一つとして「忌み」、つまり神を祀るために心身を清め、特定の言動を慎むなどの精進潔斎(しょうじんけっさい)を行いました。その際に禁忌を犯してはいけない。侵した事による災いを「厄」としました。現在でも特定の年齢に達すると、寺社仏閣や霊山・霊場に一定期間、参拝参籠を行う、神体を家に迎え、一定期間その神を祀るなどの信仰は各地に残っています。そしてそれを達成することにより、初めて村落社会で重要な責任を持つ一員に加えられる。つまり「役(やく)」が与えられる「晴れの年」なのです。
 しかし近世の都市部では前述の意味合いが薄れ、「忌み」の面のみが重視され、さらにはその年齢も「42歳は『死に』」「33歳は『散々』」などの語呂合わせがで固定化され、さらには精進潔斎ではなく「厄払いのお参り」と称しての物見遊山的な寺社参詣へと変化していきました。

 以上を踏まえ、厄年(役年)の本義に立ち返れば災いが起こる悪しき年ではなく、今までの生活を改めて、神を尊び仏を敬う。さらには今まで育ててくれた先祖・親族兄弟や友人に感謝するとともに、国家や社会・他者に奉仕する。そのような責任ある一員になるための出発点、それが厄(役)年です。逆にいえば、いくら厄払いをしても、自らを顧みることなく災いを他者へとなすり付けるだけでは、何の意味もありません。

「厄除けをしてくれ」と願う人に私はまずこう言います。
「厄除けをお願いするのはいいけれど、幸せなときにあなたは神仏や他者のお陰と感謝したことがありますか?」
 多くの人は首を横に振りますね。災いが訪れたら“神仏や先祖の祟りだ”“だれそれの仕業だ”とばかりに押しつけるが、幸せなときは自らの努力のたまものと言わんばかりに感謝しない。そんな傲慢な心こそが真の「厄」です。そんな厄を払って、「役」を迎えることが重要です。それをせずに「本厄」だ「後厄」だと気にしても、いずれにせよ新たなる「不幸の原因(責任)」を何かに押しつけて「どうしよう、どうしよう」となるだけですよ。
--------------引用終了-------------

まさに「目から鱗が落ちる」とはこのことで、晴天の霹靂、とても前向きな意味で
「納得」できて、ちょっとうれしかったです。
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【2006/12/26 11:24】 | いなか日記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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